今回は、「半径1メートルのうつくしさを考えるブログ」を運営している私が思う、「うつくしい」の定義についてお話しします。
最初に思い浮かべるのは光
「うつくしい」という言葉を聞いて、私が最初に思い浮かべるのは「光」です。
窓から差し込む光そのものも、もちろんうつくしいのですが、私が本当に惹かれているのは、「光」という言葉が持つ「希望」の響きなのだと思います。
エッセイを書くとき、私は落ち込んでいた時期のことを「海の底」「暗闇」と表現することが多いです。
そしてその対照として、希望を表したいときには「光」という言葉を選びます。
映画の中で、絶望は暗いシーンで、希望はまぶしく描かれます。そういう明暗のコントラストに、私はずっと影響を受けてきたのだと思います。
暗闇の中に差し込んだ、本という光
体調を崩し、家から一歩も出られなくなってしまった時期がありました。
世界が急に狭くなって、自分だけが取り残されたような感覚でした。そんな私を外の世界に連れ出してくれたのが、本でした。
エッセイは、私をやさしい世界へと連れて行ってくれました。
ハウツー本は、人生をよくするための考え方を教えてくれました。
あの頃の私にとって、本はまさに「光」でした。暗闇の中に、ひとすじだけ差し込んでくる光。
それは決して眩しすぎず、ただ静かに、そこにあることを教えてくれるような光でした。
早朝の、まぶしいうつくしさ
今でも覚えている光景があります。前のアパートで早朝に、窓から差し込む鋭い光。
まぶしくて、思わず目を細めてしまうくらいの強さでした。けれど私は、その眩しさそのものをうつくしいと感じました。
私はシャッターを切る手が止まりませんでした。
好きな写真家の写真を見たとき、好きなエッセイストの言葉に触れたとき、私は同じように「うつくしい」と感じます。
彼らを通して、日常の中に潜むうつくしさに気づく目を、少しずつ育ててもらってきたのだと思います。
おかげで今の私は、家の中をただ見渡すだけでも、うつくしさに気づける人になりました。
もうひとつのうつくしさ、水
光のほかに、私は「水」にもうつくしさを感じます。熱すれば気体になり、冷やせば固体になります。
水のままでいる状態は、実はとても危うくて、儚いものです。それなのに、海となった水は、私たちを大きく包み込んでくれます。
危うさと儚さを抱えながら、誰かを包み込む存在でいられること。それもまた、ひとつのうつくしさなのだと思います。
ひとつの視点
「光は必ず来る」と、誰かに言ってほしくありませんでした。
絶望の中にいたとき、私自身がそう言われるのが一番つらかったからです。
だからこの文章で、私は誰かに希望を押しつけたいわけではありません。
ただ、こういう視点もあるのだと、誰かの日常に小さなヒントとして残ってくれたら嬉しいです。光や水のように、静かに、そっと差し込むくらいの言葉として。

